ヘタリアなど
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2018/02/21 22:21:22
北米が来るのか、南米が来るのか
前に書いた記事 フランスを空爆しろよ
で、
うみねこが、すごく生活に困ったとき突然ひらめいて作っている料理があって、この間偶然インターネットで調べたらフランスのオーベルニュ地方の郷土料理と同じ食べ物だった。
”オーベルニュ地方ではオック語という方言が話されており、ど田舎なのでオシャレになる機会もなく、ぱっとした仕事もなく、それなので、みんなアメリカ大陸にいい生活を求めて移住した。
そのお陰でオーベルニュ地方のある町の人口は最近とうとう1万人をきった”
というようなことが書いてあった。
私の感覚では、そのフランス料理を食べている日は、コンビニのバイトのお土産の廃棄のパンを食べている日より貧乏。
実際、私にパンを配ってくれるアメリカ企業を否定しているのは、日本領土をフランスの海外領土化したいフランスの国王・・。
最近はスペインの国王夫妻が贅沢生活を自慢して出てくる。
ということを書きました。
ところが、革命によって、フランス共和国が成立し、今、スペイン王国で戴冠したフランスの国王様の地位は、風前の灯だそうです・・。
そんな窮地にあるのに、どうやって日本に来たのか?
ちょっと前の戦争の時、イタリアに逃げてきたバイエルン王の末裔か?
スウェーデン王室か?ベルギー王室か?つまりナポレオンか!?
という話がかなり流行しています。
スペイン継承戦争で負けたオーストリアの皇后様からのフランス王国への風当たりがすごすぎる。という簡単な話は私は書くことが出来ません。
実際、日本ではナポレオンが人気で、ロシア遠征の話も大人気です。
ロシアがロシアがロシアがバイエルン王国のなんだっていうのよ-!!!!?
アメリカ大陸と東洋の島のほうで、洋服を着て、スペイン王の用意した住宅に住み、企業で働いているはずの、ヨーロッパ移民が、なぜか、口をそろえて、
「ロシアとの戦争に負けた。」と言います。
ナポレオンの皇后の仲間のオーストリアの人はこの木造の民家で、手作業で糸巻きをして布を織ると決断したとテレビで放送していました。
珍しい外人は「スペイン」で、嫌悪されています。(と思います。)
ここがロシアやアメリカと条約を結んだ、日本人の家のはずなんだそうなんですけど、
つまり、ここは、スペイン人の家だということになります。
日本とはロシア帝国が条約を結んでいて、その領土をスペイン領化するには大きな課題が沢山あります。
そうこうしているうちに、スペイン国王は、ロシアの方面から権力を回復したのかもしれませんね。
私(スペイン?)の王国はある!!
外人(ロシア)に侵略された、「スペイン」。洋服を着たスペイン王国が取り戻さなければならないのはまず、街の姿ではないでしょうか。
パリの写真を出そうかと思ったのですが、これは、インターネットで見つけたオーベルニュ地方の民家の写真です。
近くにあるのはクレルモンフェランというキリスト教徒の街で、フランスの国王が戴冠式をしたこともある教会があるそうです。
旅行情報によると、オーベルニュではオック語という方言を喋っていて、パリでは田舎者扱いだそうです。家の外に出ると、牛ばかりいる風景が広がっている場所のようです。
彼は・・・普段は、牛と会話していた人??
もうちょっと都会の人だったかな・・・・?と反論されるのではないかと思いますので、オーベルニュののどかな風景は却下。
ヨーロッパ風の洋服を着た彼らは、スペイン王等のヨーロッパの用意した住宅に住んでいるはずなのに、1300年前から中国に似せた宮殿に住み着いていた原住民だと主張するのです。
その上、スペイン王国のことを「日本」と言うのです。
ロシアは原住民の意志を尊重するところがあり、
その上、ナポレオンの皇后は、スペインを取り返したい。
だから、彼らも、日本では、かなり大切に扱われていると思います。
Mensaje de Navidad del Rey Felipe VI | España
この間記事にした、スペイン王フェリペ6世のインタビューの続きの動画を見つけました。
面白いー、スペインのテレビって面白いのね!
王様の職業、コメディ俳優か・・?
ステージ家族が、スタジオを取材・・・・
王妃様は何て言っているの?バスク語?会話がかみ合わないから子供に、普通に命令?
王妃様: 子供は普通だわ・・・・
まぁ・・・・フェリペ6世の王妃様はハプスブルグ家のスペイン王の末裔の仲間なのね!!!
結局、日本に移住しても、私たちの頭の中にある地図は同じでした。
あのスペイン王の名前は、Charles I of Anjouで、
その歴史は、もう既に、大昔の人が書いています。
Charles I of Anjou
ビザンティンエンパイアーと書いてある地図の領域に入るとどうしてこうなってしまうのでしょうか?
イタリアの王、コンラート4世を処刑したのはバーデンというキリスト教徒。
東ローマ帝国への攻撃という一つの目的のため現れたカルロス・ド・アンジュー、
カペー家を信頼していた教会は・・・コンラート4世を処刑したのです。
ビザンティンエンパイアーとはずっと長い間そういう場所として続いている。
怖い。
何が住んでいるんだろう、怖い。
wikipediaの説明、カルロス・ド・アンジューの失敗。
Charles was lenient with Manfred's supporters, but they did not believe that this conciliatory policy could last.
They knew that he had promised to return estates to the Guelph lords expelled from the Regno.
Neither could Charles achieve the commoners' loyalty, especially because he continued levying an irksome tax, the subventio generalis, although the popes had declared it an illegal charge.
He introduced a ban on the use of foreign currency in large transaction and made a profit of the compulsory exchange of foreign coins.
He also traded in grain, spices and sugar, even through a joint venture with Pisan merchants.
Pope Clement censured Charles for his methods of state administration, describing him as an arrogant and obstinate monarch.
The consolidation of Charles' power in Northern Italy also alarmed Clement.
To appease the pope, Charles resigned the senatorship in May.
His successors, Conrad Monaldeschi and Luca Savelli, soon demanded the re-payment of the money that Charles and the pope had borrowed from the Romans.
Victories by the Ghibellines—the Hohenstaufens' supporters—forced the pope to request Charles to send his troops to Tuscany.
Charles' troops ousted the Ghibellines from Florence in April.
After being elected the Podestà (or ruler) of Florence and Lucca for seven years, Charles hurried to Tuscany.
The pope summoned him to Viterbo, forcing him to promise that he would abandon all claims to Tuscany in three years.
The pope wanted to change the direction of Charles' ambitions.
He persuaded Charles to conclude agreements with William of Villehardouin, Prince of Achaea, and the Latin Emperor, Baldwin II (who had lost the core territory of his empire) in late May.
According to the first treaty, Villehardouin acknowledged Charles' suzerainty and made Charles' younger son, Philip, his heir, also stipulating that Charles would inherit Achaea if Philip died childless.
Baldwin confirmed the first agreement and renounced his claims to suzerainty over his most vassals in favor of Charles.
Charles pledged that he would assist Baldwin to reconquer Constantinople from the Byzantine Emperor, Michael VIII Palaiologos, in exchange for one third of the conquered lands.
Charles returned to Tuscany and laid siege to the fortress of Poggibonsi, but he could capture it only at the end of November.
Manfred's staunchest supporters had meanwhile fled to Bavaria to persuade Conrad IV's 15-year-old son, Conradin, to assert his hereditary right to the Regno.
After Conradin accepted their proposal, Manfred's former vicar in Sicily, Conrad Capece, returned to the island and stirred up a revolt.
At Capece's request, Muhammad I al-Mustansir, the Hafsid caliph of Tunis,allowed Manfred's former ally, Frederick of Castile, to invade Sicily from North Africa.
Frederick's brother, Henry—who had been elected senator of Rome—also offered support to Conradin.
Henry had been Charles' friend, but Charles failed to repay a loan to him.
Conradin left Bavaria in September 1267.
His supporters' revolt was spreading from Sicily to Calabria; the Saracens of Lucera also rose up.
Pope Clement urged Charles to return to the Regno, but he continued his campaign in Tuscany until March 1268.
In that month, he met with the pope who made him the Imperial Vical of Lombardy.
He marched to Southern Italy and laid siege to Lucera, but he had to hurry to the north to prevent Conradin's invasion of Apulia in late August.
At the Battle of Tagliacozzo, on 23 August 1268, it appeared Conradin might win the day, but a sudden charge of Charles' reserve discomfited Conradin's army.
The burghers of Potenza, Aversa and other towns in Basilicata and Apulia soon massacred their fellows who had agitated on Conradin's behalf, but the Sicilians and the Saracens of Lucera did not surrender.
Charles marched to Rome where he was again elected senator in September.
He appointed new officials to administer justice and state revenues.
New coins bearing his name were also struck in the town.
During the following decade, Rome was ruled by Charles' vicars, each appointed for one year.
Conradin was captured at Torre Astura.
Most of his retainers were soon executed, but Conradin and his friend, Frederick I, Margrave of Baden, were brought to trial for robbery and treason in Naples.
They were sentenced to death and beheaded on 29 October.
Conrad of Antioch was Conradin's only partisan to be released, but only after his wife threatened of executing the Guelph lords who were held captive in her castle.[97] The Ghibellin noblemen of the Regno fled to the court of Peter III of Aragon, who had married Manfred's daughter, Constance.
ハプスブルグ家は神聖ローマ皇帝に選出されるようになってから
数百(?)年。未だに・・この人の家系に恨みがましい褒め言葉をかけているんですか・・。
ドレスが素敵?
Adelaide of Maurienne
Pope Callixtus II
March of Ivrea
<画像を追加>
それはなぜなの?
Jiménez dynasty
アルフォンソ6世の女系の女王と、庶子は、どちらも王家、どちらが偉いの?
ハプスブルグ家は、カペー系ブルゴーニュ家側に付いた。
「女王様贅沢すぎるんじゃないかしら?」
夫のガリシア伯ライムンドの実家がイヴレーア家。
親戚のナバラ王家は完全にフランス王国の王妃の家系の地位になった。
「ナバラ王家って贅沢すぎない?」
えっ・・・違う?
ナバラ王家が結婚相手、兄の家系シャンパーニュ伯アンリ1世/3世
家系図を辿っていくとティボーブロワ伯爵の家系で、フランス王室の兄弟。
ハプスブルグ家は弟のフランス国王の家系側に付いた。
「おにいちゃんの家系贅沢すぎない?」
House of Blois
House of Évreux
選挙で選ばれるための価値観はあの日から変わっていない。
・私はドイツなんていう場所は、”どうでもいい場所だ”と思っている!
・シュバーベン大公家、なにそれ?
・(ドイツの)遺跡で、もう、何か拾えそう?
・私の対立候補は、スペインや、イギリスの町の中に隠れて住んでいる。
・私の対立候補は、スペイン王家やフランス旧王家とか呼ばれている。
神聖ローマ皇帝一覧表
選挙で選ばれた親戚
認めてるよ、勿論・・・。
ドイツなんて私には ”どうでもいい場所” なんだから。
今日の面白いニュースです。
ロシアのプーチン大統領は、レーニンの考え方はソ連の崩壊につながり間違っていたと発表しました。
レーニンの考えソ連邦の崩壊
https://jp.sputniknews.com/russia/201601221472374/
選挙が潰れてまた選挙
選挙が潰れてまた選挙
あの日からずっと選挙で勝っている家があって
「負けた対立候補は真似したほうがいいよ」と言うみたいです。
彼らの方法は、
こうやって対立候補の物を貰ってくるだけなんだ。
「ちょっと贅沢すぎませんか?
あなたが持っているそれくださいな。」
返してもらったら全部うち(対立候補)のものだ。
レーニンの考えソ連邦の崩壊?
私の考えソ連崩壊?
→ 私の考えソ連崩壊間違ってる。