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ドイツの東方植民

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ドイツの東方植民

ドイツ人のアイデンティティは、自分がゲルマン人であるということらしい。

ローマ時代には、ドイツ人はゲルマニアという地域に住んでいて、ローマ帝国からは蛮族の住む領域とされていたそうだ。

wikiを見ると、ゲルマン人の居住地域の地図には、(非ローマの?)スラブ系住民などの居住地も含まれていて、本来のゲルマニアの領域はごく狭小だったようだ。

およそ、ローマ帝国がゲルマン人のアイデンティティを作ったといえるだろう。

時代が下って、12世紀には、ドイツ人は東方植民ができるまでに拡大した。

東方といっても、遠く離れた東洋ではなく、ごく近い地域への植民だ。



ドイツのラウジッツ地方にあるコトブスという都市は、幾たびにも重なるドイツの侵攻に耐えた。

街には、10世紀頃からソルブ人というスラブ系住民が住んでいたそうだが、12世紀頃のドイツの東方植民によって、ドイツ化した歴史を持つそうだ。

1933年に成立した国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)政権は、ソルブ人をスラヴ民族ではなく「ソルブ語を話すドイツ人」と見なし、「再ドイツ化」政策を進めた。

・1945年、第二次世界大戦でドイツが敗北すると、ソルブ人の住む、ラウジッツ地域はドイツの一部としてソヴィエト連邦の軍政下に入った。

・ソヴィエト占領下でソルブ人の状況は改善され、1945年にドモヴィアの再建、1947年にソルブ語新聞の復刊が行われ、1948年にはブディシン(ドイツ語ではバウツェン)に高等教育の準備期間となるソルブ語の文法学校(グラマースクール)が設立された。

・東ドイツ憲法の第40条には「ソルビア民族に属するドイツ民主共和国の市民は、その母語及び文化を育成する権利を有する」と規定されていた。

現在も、ドイツ人は、ソルブ人のことをヴェント人と呼ぶそうだ。

もし、ソビエトがドイツのようになったら、危険だ。

ドイツが少数民族を治めようとすると、何故かいつもナチスドイツのようになってしまう。



ソビエトは、昔、ロシア帝国だった。
イヴァン3世の時代には、本当のローマ帝国の皇帝のパレオロゴス家から、后を娶った。

しかし、ピョートル1世の時代に、ドイツ人との婚姻が始まった途端、家系は2代で絶えた。

結果的に、ピョートル1世の娘のアンナ・パブロヴナが嫁いだ、ドイツ系のホルシュタイン=ゴットルプ家の子供に皇帝の椅子が渡った。

ニコライ1世の時代には、プロイセン王家と結婚することにしたらしい。

1817年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の長女シャルロッテ・フォン・プロイセン(結婚と同時にアレクサンドラ・フョードロヴナと改名)とニコライ1世は、結婚した。

アレクサンドル2世の血筋は、プロイセン王家との婚姻によって現在まで受け継がれている。

Großfürstin Kira Kyrillowna

 

現在のプロイセン王家当主のゲオルグ・フリードリヒ・フェルディナンド・フォン・プロイセン。

ドイツ皇帝だった、ヴィルヘルム2世は、ナチスドイツを支持するような発言をしていたそうだ。



プロイセン王家は、ヨハン2世の時代に、所領を拡大した。

妻のヘンネベルク伯の娘エリーザベト・フォン・ヘンネベルクとの間にもうけたマルガレーテは、バイエルン公シュテファン2世に嫁いだ。

シュテファン2世は、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世とヤヴォル公ボルコ1世の娘ベアトリチェの次男。残念ながら子供は生まれなかった。



ヨハン2世の跡継ぎのフリードリヒ5世は、マイセン辺境伯フリードリヒ2世の娘、エリザーベトと結婚した。

マイセン辺境伯フリードリヒ2世の妻マティルデは、ヴィッテルスバッハ家の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と、ヤヴォル公ボルコ1世の娘ベアトリチェとの娘だ。

フリードリヒ5世とベアトリチェの娘のエリザーベトは、ヴィッテルスバッハ家傍流のプファルツ選帝侯ループレヒト3世に嫁いだ。

ループレヒト3世は、後に神聖ローマ皇帝になった。

ループレヒト3世は、選帝侯ループレヒト2世とシチリア王ピエトロ2世の娘ベアトリーチェの息子。

ピエトロ2世は、シチリア王フェデリーコ2世とナポリ王カルロ2世の娘エレオノーラの息子。

カルロ2世 の妻は、ハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリア。ピエトロ2世のいとこには、アカイア公国を継承したフィリッポもいる。アカイアって聖書に出てくる地名?

フリードリヒ5世は、婚姻によって、様々な国の王族と親戚関係になった。



フリードリヒ5世の跡継ぎの、フリードリヒ1世は、バイエルン公フリードリヒの娘エリザーベトと結婚した。

フリードリヒは、バイエルン公シュテファン2世と、シチリア王フェデリーコ2世エレオノーラ・ダンジョの娘イザベッラの息子で、妻はミラノ僭主のベルナボ・ヴィスコンティの娘マッダレーナ。

フェデリーコ2世は、アラゴン王・シチリア王ペドロ3世(ピエトロ1世)と、シチリア王マンフレーディの娘コスタンツァの息子。



フリードリヒ1世の3男のアルブレヒト・アヒレスの跡継ぎの、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯フリードリヒ2世は、ポーランド王カジミェシュ4世と、ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世エリザーベトの娘、ゾフィアと結婚した。



フリードリヒ2世の跡継ぎのアルブレヒトは、ドイツ騎士団総長をつとめた。

アルブレヒトは、1550年、ブラウンシュヴァイク=カレンベルク侯エーリヒ1世の娘アンナ・マリアと結婚。

アルブレヒトの跡継ぎの、アルブレヒト・フリードリヒは、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の娘マリー・エレオノーレと結婚し、7人の子をもうけたが、2人の男子はいずれも夭折した。

マリー・エレオノーレは、ヴィルヘルム5世と、ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の娘マリアの娘。

1618年にアルブレヒト・フリードリヒが死去した後、異母兄のヨハン・ジギスムントが公位を継承し、以後はブランデンブルク選帝侯がプロイセン公(後にプロイセン王)を兼ねる同君連合国家ブランデンブルク=プロイセンが成立した。



ローマ教皇によって、その時代には、ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世と、ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カール4世が存在していたそうだ。

対立していた神聖ローマ皇帝カール4世

カール4世の跡継ぎの神聖ローマ皇帝ジギスムントとバルバラ・ツェリスカの1人娘、エリザーベトは、オーストリア大公アルブレヒト5世に嫁いだ。

アルブレヒト5世は神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世になった。

アルブレヒト2世の娘のエリザーベトは、ポーランド王カジミェシュ4世の后になった。

ポーランド王カジミェシュ4世の娘のゾフィアは、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯フリードリヒ5世と結婚した。

その後数代で、所領は、ブランデンブルグ=プロイセンに吸収された。

カール4世の血筋は、女系で細々と受け継がれているだけだ。



話は元に戻って、ローマ帝国が、ゲルマン人のアイデンティティを作った。

ヴィッテルスバッハ家と、ルクセンブルク家の対立の結果現れたのは、ハプスブルグ家による神聖ローマ皇帝の世襲だ。

ハプスブルグ家による世襲の統治が定着するころには、壮麗なコンスタンティノープルの宮殿は破壊され、領内に侵入したゲルマン人は、ローマ帝国の残骸を集めようとしたかもしれない。

ローマの生活用品がいくら価値があるものだったとしても、基本的に、敵の物は破壊されるから、残らない。ゲルマン人は、僅かな残骸を拾うだけだっただろう。

ジュリアス・シーザーの名前は、地面に落ちていた落し物に違いない。

末裔を名乗る意味なんて全くないのに、プライドのかけらもない気が・・。

そんなことをしていると、確かにハプスブルグ家の人々は、正真正銘のゲルマン人には見えるから、仲間がドイツ王として選出してくれたのかもしれない。



話は飛んで、フランスの王妃マリーアントワネットは、ハプスブルグ家の出身だ。

マリーアントワネットは、農村の風景を、フランス王宮に拾ってきた。

ハプスブルグ家の宮廷では、プロイセン王の家族は宮廷の侍従をしていたそうだ。

ハプスブルグ家の人は、なぜかプロイセンのものを拾わない。

ホーエンツォレルン家が、もともとゲルマニア出身の人だと確信して差別しているんだろうか?

さすが、ジュリアス・シーザーの名前を拾うだけはある。

王妃の処刑後、パリにはプロイセン軍が進駐した。おそらくその後住み着いた人も大勢いるに違いない。沢山のものがプロイセン風の様式にとって変わったかもしれない。

現代のパリには、ハプスブルグ家の人が拾いたいものが何もない!



いっそプロイセンのものを拾いたい!いや、拾ってあげたい!

それにしても、現在のプロイセン王家の跡継ぎも、女系でうっすらとハプスブルグ家のフェルディナンド1世の血を引いているようだし、みんなが、拾いたいのはジュリアス・シーザーの名前だとかいじけるのかも知れない。

ナチスドイツは、卑しいゲルマニア風の政権だ。

しかし、あれこそが、ゲルマニアの野蛮な血筋を持った生き物の生き様なのかもしれない(@△@)

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